こんにちは。
おもちブログをご覧頂きありがとうございます。
当記事はアルコールに関わるコンテンツを紹介しているため、20歳未満の方は閲覧を控えて頂ますようお願い致します。
この記事ではウイスキーというお酒に興味があるけどそもそもどういったお酒なのか?
いつから飲まれているの?
日本に入ってきたのはいつ頃なんだろう?
スコッチとかバーボンって何が違うの?
何が原料?
そんな何気ない質問にお答えする内容になっています。
ウイスキーに興味のある方はこの記事を読めばウイスキーを知る上で基本となる知識が身につくでしょう。
少し自己紹介させてください。このブログを運営しているおもちと言います。ボクはウイスキーが大好きで年間1000杯ウイスキーを飲んでいます。
毎日のようにウイスキーを飲んでその味の違い、個性を感じて楽しんでいます。
そんなボクが大好きなウイスキーについて詳しく解説しますのでぜひ最後までご覧ください。
ウイスキーとは?
ウイスキーの語源はゲール語で[ウィシュケ・ベァハ]と言い、約すと[生命の水]という意味です。
ウィシュケ・ベァハは12世紀〜13世紀には造られていたと言われています。
ウイスキーと呼ばれるお酒は必ず原料に穀物(大麦やトウモロコシ、ライ麦など)が使われます。
穀物を原料に温水を加え加熱した後、蒸溜し樽詰め、長期熟成した物がウイスキーというお酒です。
同じような製造工程で原料を果実で作ったお酒がブランデー、樽詰めしないで瓶詰めをしたのがウォッカやジンと言われる、スピリッツに分類されるお酒になるのです。
またウイスキーやブランデーは樽詰めすることによって樽由来の成分が原酒に移り、茶色い液体に変わることからブラウンスピリッツとも呼ばれています。
一般的にスピリッツと呼ばれるウォッカやジンなどの無色透明なお酒はホワイトスピリッツと呼ばれています。
ウイスキーの歴史
ではウイスキーとはそもそもどうやって生まれ、どうして世界各国で愛されるようになったのでしょうか
ウイスキーには世界5大ウイスキーと呼ばれるウイスキーの生産が盛んな国があります。
スコッチウイスキーのスコットランド、アメリカンウイスキーやバーボンのアメリカ、アイリッシュウイスキーのアイルランド、カナディアンウイスキーのカナダ、そしてジャパニーズウイスキーの日本。
その中からスコッチ(スコットランド)にて最も古くウイスキーに関する記録が残っています。
いつから飲まれているかは不明ですが、記録によると1494年、スコットランド王室の出納記録に記されていて1500年代には上流階級に飲まれていたと文献に記されています。
当初は修道院で修道士がウイスキーを造っていたと言われており、その製造方法を農家などに伝えた事で個人がウイスキーを生産するようになって行き、平民にも好んで飲まれる様になっていったのです。
1707年、内乱によりスコットランドとアイルランドが併合します。
この併合でグレート・ブリテン王国が誕生します。
この時、法制度も大きく変わり、ウイスキーの需要に目をつけた役人がウイスキーの製造、販売に多額の税を課したのです。
当時のスコットランドでウイスキーを作っていた人たちはその多額の税を払う事ができなかった為、隠れてウイスキーを作り出しました。
普通に作っては役人に見つかってしまうため、樽にウイスキーを入れ隠したのです。
この時初めて、ウイスキーは樽に詰められたのです。
今でこそウイスキーは樽詰めして熟成することで芳醇な香り、重厚な味わいに変化すると言われますが、始まりは役人から逃げるためたまたま近くにあった樽に隠したのです。
それまでウイスキーは無色透明で焼酎の様な味や見た目だったと言われています。
麦でつくっていますから麦焼酎に似ていたかもしれませんね!!!
また樽に隠したと言っても役人がいる地域に置いていてはいつかバレてしまいます。
そこでウイスキー生産者達はウイスキーの入った樽をスコットランド北部に広がる山々、ハイランド地方に隠しそこで密造を開始したのです。
スコットランド南部のローランド地方はどちらかと言うと街で工場などが多く立ち並ぶ地域で役人達も多くいたのでしょう。
今でもスコッチウイスキーの製造工場である蒸溜所はそのほとんどがハイランド地方にあります。
その理由は密造する際に山奥に隠れるように生産者達がハイランド地方に移動したのが始まりなのです。
そして密造し売買するために隠れて人里に樽を持って行く必要がありました、なので移動にとても時間がかかってしまいました。
車やバイクがあるわけも無いので、移動手段は歩きや馬車です。
そのかかってしまう時間が奇跡を起こしたのです。
その奇跡が樽熟成なのです。
生産者はやっと人里に着いて売ったり、仲間とこっそり飲もうとしたのでしょう。
樽からウイスキーを注いだら無色透明だった液体が黄金色に輝く液体に変化していたのです。
そして試しに飲んでみたらまたビックリ!!!
香りも、味も無色透明たっだ時よりもさらに味わい深い物に変化していたのです。
この出来事がたちまち密造している生産者に広まり、皆、樽熟成を行う様になったのです。
これが今現在、世界中で飲まれているウイスキーが誕生した瞬間だったのです。
課税から逃れるため山奥にかくれ、たまたま樽にウイスキーを隠し、移動に時間がかかってしまったという偶然に偶然が重なってたまたま出来たのが今のウイスキーなのです。
まさに奇跡的にできたお酒なのです!!!
樽にいれて熟成を促す工程はこうしてウイスキー造りにおいて必須の工程となり、密造時代から取り入れられる様になりました。
ウイスキーの始祖の原酒は12〜13世紀ごろ、現在のウイスキーに変化を遂げたのは18世紀ごろなのです。
アメリカではスコッチの密造時代により輸入量が激減、アメリカ人にも好んで飲まれるようになっていたため希少価値が上がってしまったウイスキーをもっと飲みたいと考えたアメリカ人やスコットランドやアイルランド人の入植者達は、自国であるアメリカでもウイスキーを造る事を考えて製造を開始したのです。
これがアメリカンウイスキーの始まりでした。
爆発的にアメリカ国内でウイスキー需要が高まり、アメリカ政府は1791年にウイスキーに課税をくわえます。
悲しい事にスコットランド同様に課税によりアメリカでもウイスキー造りにピンチが訪れますが、アメリカは州が変われば法律も大きく変化するので政府の管轄外であったケンタッキー州、テネシー州に生産者達は移り、現地で多く栽培されていたトウモロコシを使ってウイスキー造りを再開したのです。
これが今のバーボンウイスキーの始まりです。
ケンタッキー州のバーボン地方で造られたからバーボンと呼ばれるようになったのです。
同じくテネシー州でも造られる様になったウイスキーもテネシーウイスキーと呼ばれる由縁です。
後のジャックダニエルはこの出来事で生まれる事になるのです。
他にも政府から逃れる為に、隣国であるカナダに移住してウイスキー造りを開始する生産者もいました。
これがカナディアンウイスキーの始まりです。
1823年、イギリスでは密造があまりにも多かったため政府は合法化する事を決めます。
(1801年にグレート・ブリテン王国はアイルランド王国と連合を結んでいるためこの時すでにイギリスと呼べます)
酒税法を見直し、多額の税を課す事をやめ、政府の許可を得た蒸溜所は政府公認で蒸溜所を稼働できるようになったのです。
この政府公認を得た最初に蒸溜所があのグレンリベット蒸溜所でした。
グレンリベットとは今でも大人気のスコッチウイスキーでそのウイスキーを造っている蒸溜所の事です。
こうして続々と政府の許可を得た蒸溜所は隠れてではなく胸を張ってウイスキー造りを行なう事ができるようになりスコッチウイスキーの密造時代は終焉を迎える事ができたのです。
一節によると、当時のイギリス国王がスコットランドに訪れた際に密造酒であるグレンリベットを飲み、その味に感動し、いつでも飲めるように酒税法改定に動いたとも言われています。
こうしてウイスキーが造りが波のったと思いましたがまた問題となる出来事が発生してしまいます。
それがアメリカ合衆国の禁酒法の制定でした。
アメリカ禁酒法とは1920年に娯楽のためのアルコールの摂取を法律により禁止するという内容で、消費のための製造、販売、輸送が全面的に禁止されたのです。
これはケンタッキー州やテネシー州も例外ではなくアメリカンウイスキーの製造に大打撃を加える事になったのです。
大打撃はアメリカンウイスキーだけではありませんでした、この時すでにスコッチウイスキーやアイリッシュウイスキーはアメリカにも輸出していたため、その売り上げにも大きな影響を与えたのです。
この時、ウイスキー造りが活性化したのが隣国カナダでした。
カナダの生産者達はカナディアンウイスキーを密輸し隠れてウイスキーを売買していたと言われています。
10数年禁酒法時代は続きます。
原料の農家、生産者達の失業の救済のため1932年の大統領選挙では禁酒法が大きな論点となり、禁酒法の改定を訴え続けた、フランクリン・ルーズベルトが勝利し、1933年、ついに禁酒法が解かれる事になるのです。
晴れてウイスキーがまたアメリカでも造られるようになり、隠れずに楽しく飲める様になったのです。
こうして、現在のスコッチウイスキー、アメリカンウイスキー、アイリッシュウイスキー、カナディアンウイスキーは世界中で愛されるようになったのです。
日本とウイスキー
ではそんなウイスキーはどういった経緯で日本にやって来たのでしょうか
初めて日本に入ってきたのは1853年のペルー来航です。
江戸幕府側の人間と黒船側の人間が会合した際にウイスキーが振る舞われたとされています。
しかし日本では当時の洋酒は全く流行りませんでした。
それもそのはず、日本はまだ江戸時代です。
時の将軍は第13代徳川家定、この時、将軍にもウイスキーが献上された記録が残っていますが実際に飲まれたかは分かりません。
その後、歴史の授業でも出てくる日米修好通商条約により、外国人居留者も増え、その方に向けてウイスキーの輸入も行われるようになりました。
大政奉還が執り行われ、時代は江戸から明治へ変わります。
ここまでウイスキーは日本に輸入されてはいますが、普及率は1%にも満たない物でした。
まだまだ洋酒は高く、ハイカラな嗜好品だったため手が出しずらい物だったのでしょう。
そんな中、岩倉具視率いる岩倉視節団がヨーロッパ諸国に派遣される事になります。
調査の内容には西洋文明の調査もあり、イギリスにも使節団は派遣されたとあります。
その時にとあるウイスキーを岩倉具視が口にし、大変気に入り日本に持ち帰りました。
そのウイスキーがオールドパーというブレンデットスコッチウイスキーです。
ブレンデットスコッチウイスキーとは、スコットランド内で製造された、モルト(大麦麦芽)を原料として造られたウイスキー原酒とグレーン(穀物)で造られたウイスキー原酒をブレンドしたウイスキーの事。
岩倉具視はオールドパーを日本に持ち帰り、明治天皇にも献上し、日本の上流階級の社交の場に欠かせないウイスキーとなったと言われています。
オールドパーについて詳しく書いた記事はこちら
明治時代は上流階級の間で輸入したウイスキーが飲まれるようになっていったのです。
そんな時代を経て時は大正時代に変わります。
この時、日本でも本格的なウイスキーを作れないかと考えた人物達がいました。
ここから日本のウイスキーに大きな変化が起き出すのです。
日本の大手酒精メーカーである摂津酒造の社長であった阿部喜兵衛氏、乗務の岩井喜一郎氏が発起人で摂津酒造で働いていたある技師に目を着けたのです。
その人物があの連続テレビ小説にもなった[まっさん]こと竹鶴政孝氏でした。
竹鶴政孝はウイスキーの本場であるスコットランドにウイスキー造りの技術を学ぶため渡り、見事に技を習得して帰ってくるのです。
その頃、寿屋(現;サントリー)の創業者である鳥居信治郎氏もまた日本で本格ウイスキーを造りたいと思い蒸溜所建設の構想をしていました。
しかし時代は1918年頃でした。
ピン!っとくる方もいると思いますが、時代は第一次世界大戦の集結後だったため景気の停滞、アメリカの禁酒法と時代が被ってしまいお酒自体の需要が下がり、売上が低下してしまっていた事から摂津酒造では蒸溜所建設を断念する事になってしまいます。
しかし竹鶴政孝氏はどうしてもウイスキーを造る夢を諦める事が出来なかったため日本帰国後、摂津酒造を退職します。
そんな中で寿屋(現;サントリー)の鳥居信治郎が竹鶴政孝に声をかけ、竹鶴政孝は寿屋に入社します。
鳥居信治郎は構想していた地に蒸溜所建設を決定しました。
その地というのが大阪府島本村という地名、この地に建てられたのが、日本初の蒸溜所である山崎蒸溜所なのです。
今でも大人気で中々買うことの出来ないジャパニーズウイスキーの代名詞である山崎が造られている蒸溜所です。
山崎蒸溜所が完成し、初代蒸留所長に竹鶴政孝が就任し日本初の本格ウイスキー造りが開始されるのです。
そしてついに日本初の国産ウイスキーが完成します。
そのウイスキーが[白札]というウイスキーで今でも残っている「サントリーホワイト」というウイスキーなのです。
当時はまだまだ一般人にはウイスキーのような洋酒は馴染みがなく「白札」の売上は芳しくはありませんでした。
竹鶴政孝氏はその技術を部下達に託し、自分の理想とする地でウイスキー造りをしたいという夢を追いかけ寿屋を退職。
竹鶴政孝は北海道余市郡余市町に自分の理想とするウイスキー造りに適した気候と風土の場所を見つけその地で企業し大日本果汁株式会社(のちのニッカウイスキー)を設立します。
そしてその地に蒸溜所を建設しウイスキー造りに没頭するのです。
この蒸溜所が「ブラックニッカ」などを製造している余市蒸溜所です。
鳥居信治郎氏はさらに一般人にウイスキーを飲んでもらいたいと改良を重ね、1937年にサントリー「角瓶」を発売します。
「角ハイボール」と今でも大人気の角瓶の誕生にはこうした物語があったのです。
「角瓶」の売上は中々良かったのですがこの僅か2年後に第二次世界大戦が勃発してしまいます。
戦時中の日本の悲惨な現状を知らない人はいないと思います。
ウイスキー造りだとか、お酒を楽しむだとか言ってられる状態ではありません。
空襲に合い、寿屋の大阪工場は全壊してしまいます。
日本の敗戦という形で1945年に第二次世界大戦は幕を引きます。
寿屋はなんとか戦災を免れたウイスキー原酒を使い、1946年に「トリスウイスキー」を発売します。
戦後の日本も復興していき、また「トリスウイスキー」は一般人でも買えるほど安価な値段だったことから爆発的にヒットします。
1955年ごろには「トリスバー」と呼ばれる飲み屋が各地にできるほどの人気っぷりでこの頃はトリスハイボールが良く飲まれていました。
この頃のトリスは一概に現在のウイスキーと呼ばれる物とはかけ離れていました。
ウイスキーの原酒を5%ほど使って醸造用アルコールに混ぜて瓶詰め、少しでもウイスキー原酒を節約して商品化していました。
ですがこれは寿屋が戦後間もない不景気に自社を存続させるために必要な決断であり、戦争が終わり、やっと平穏な日常が戻ってきた人々にとって安価で気の合う仲間達と語らいながらお酒を飲む、戦後の日本復興のためにも精神的な面で人々を支えていたのではないかとボクは思います。
今のサントリーのトリスは原酒比率も変わりウイスキー原酒が当時より多くなって造られていますが、寿屋が存続する事ができたのは、トリスあっての事なので今でも商品として残されているのです。
そして1950年には今でも根強い人気を誇るオールドを発売。
1963年に寿屋からサントリーに社名を変え今に至ります。
サントリーオールドの瓶やラベルには今でも「寿」という漢字が掲げられています。
寿屋という社名の名残を残し続けているオールドというウイスキーは戦後の復興を遂げた日本でバーやラウンジではボトルキープをするのが一種のステータスになるほどの人気を博しました。
そして1984年、サントリー「シングルモルト山崎」が発売。
こうして日本もまたジャパニーズウイスキーとして世界5大ウイスキーのひとつに数えられる様になっていったのです。
※シングルモルトとは1つの蒸溜所で製造したモルト(大麦麦芽)原酒のみ使用し瓶詰めされるウイスキーの事です。
まとめ
いかがだったでしょうか
この記事ではウイスキーの歴史。
日本でウイスキーが造られるようになった経緯を解説させて頂きました。
世界各国で美味しいウイスキーを造りたい。そう夢を追い続けた人々がいたからこそ今のウイスキーがあり、多くのファンを魅了しています。
また新たに同じ夢を持つ人達が理想の地でウイスキーを造っています。
ボクはウイスキーというお酒の物語に魅了され、単に美味しいからではなくウイスキーに込められた生産者の情熱を皆様に伝えたいという思いでこの記事を書きました。
「ウイスキーというお酒にはこんなストーリーがあったんだな」と頭の片隅に置いて頂いて今後ウイスキーを飲んでもらえたらとても嬉しく思います。
ウイスキーに限らずお酒は適度に自分のペースで楽しむ物です。
過度な飲酒、人に無理に勧める行為は控えて楽しみましょう。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
おもち
初めてイギリス政府公認を得たシングルモルトウイスキー「グレンリベット」シングルモルト入門としてかなりオススメできる。これぞシングルモルトスコッチと呼べるウイスキー。
アメリカンウイスキーの代表格とも言えるウイスキー「ジャックダニエル」ボクはコーラで割る「ジャックコーク」が大好きな飲み方です。
日本で初めて発売された本格ウイスキー「白札」今でも名前を変え残り続けているのは情熱を持ってウイスキーを造りたいと尽力した男たちを称えているのだと思います「サントリーホワイト」
鳥居信治郎氏が日本人にもウイスキーを飲んでもらいたいと考え抜いた傑作。「サントリー角瓶」
戦後の復興を支えたサントリーの立役者「トリス」
「寿屋」の文字を今でも残し続ける名作ウイスキー「オールド」
岩倉使節団が日本に持ち帰ったウイスキー「オールドパー」について詳しく書いた記事はこちら
ウイスキーを楽しむ上で欠かせないテイスティンググラスについての記事はこちら
1000円代で買えるハイボールに最適なウイスキーを20種類紹介している記事はこちら(この記事で出てきたウイスキーも紹介しています)
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